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何が正しくて、何が間違いなのか

// 随想 · 2026-02-23 · 阅读 5 分钟 · 49 次阅读

子供の頃、私は正しさと間違いは選択問題だと思っていた。Aが正解で、Bが不正解。間違えたら書き直せばいいし、先生は答案用紙に赤いバツをつけるだけ。正解すれば、大きなマルをもらえる。あの頃の世界はなんてシンプルだったんだろう。道徳でさえ、標準解答があった。大人になって気づいた。人生にはAもBもないし、ましてや「この問題はCを選びなさい」と教えてくれる先生なんてどこにもいない。多くの場合、これがそもそも問題なのかどうかさえわからない。

子供の頃、隣の席の子の宿題をカンニングした。もちろんそれが「間違い」だとわかっていた。でも、その間違いは明確で、単純だった——見つかれば叱られる。大人になって、「カンニング」すること自体が難しくなったことに気づいた。他人は順調に見える。明確な目標があって、出来合いの道筋がある。でも、自分も同じように歩こうとすると、まったく真似できない。他人の選択を自分に当てはめると、どこかが必ずしっくりこない。リズムが合わない、能力が合わない、心の望みさえも合わない…

どうやら人生は標準的な試験用紙じゃない。私たちは一人ひとりが違っていて、統一されたフォーマットなんてない。他人の答えがどんなに見事でも、同じ問題用紙じゃないんだ。

私は気づき始めた。正しさと間違いについて、子供の頃ほど明確じゃなくなっている。

私たちはよくダブルスタンダードになる。友達が遅刻すると、「この人、時間の感覚がなさすぎる」と思う。自分が遅刻すると、「予期せぬことがあったんだ」と説明する。

他人が選択に失敗すると、判断力が足りないと思う。自分が失敗すると、事情があって仕方なかったと思う。もし正しさと間違いが絶対的なものなら、なぜ主語が変わると基準が変わるんだ?

時には、「正しい」ことが損をさせることもある。香港に旅行したときのことを覚えている。ガイドブックに載っている「必食レストラン」に行った。1時間近く並んだ。香港の店はだいたい狭くて、見知らぬ人と肩を寄せ合った。その時、自分に言い聞かせた。「これで正しいんだ。みんなこの店の味が好きなんだ。」でも、実際に席に着いてご飯を口にしたとき、ただ普通だとしか感じなかった。

そう、「正しい」は標準的だけど、驚きはひとつもない。

私たちもよくそうなんじゃないか。「正しい」道、「正しい」専攻、「正しい」言葉を話し、「正しい生活」を送る。でも心の奥では、そんな「正しい」ことに一度も満足したことがない。

反対に、「間違った」ことは、時に一時的な爽快感をもたらす。早起きの目覚ましを止めて、あと30分寝られる。ダイエットしなきゃとわかっていながら、夜中にこっそりテイクアウトを頼む。やるべきことを明日に延ばす。理性的に抑えるべき時に、あえてわがままをする。

そういう間違いはみんな現実だけど、まるで盗んだお菓子みたいに、甘さがリアルだ。

でも問題は、甘さの後で、私たちはしばしばより高い代償を払うことだ。後悔、おそらくそれが一番高くつく代償だ。叱られるよりもずっと辛く、一度の失敗よりもずっと重い。叱られるのはその場限りの痛みだけど、後悔は繰り返し再生される。

「あの時、もし…」という言葉が頭の中で繰り返される。どんな非難よりも鋭い。

だから、だんだんわかってきた。問題はおそらく、絶対的な正しさとは何か、絶対的な間違いとは何か、ではないんだ。本当に難しいのは、選択をするその瞬間に——私はこの選択に責任を持てるかどうか、なんだ。

正しいことは、必ずしも心地よくない。間違いは、必ずしも破滅を意味しない。肝心なのは、やった後に、ダブルスタンダードで自分を慰めないことだ。

完璧な「正解」を追い求めるのをやめて、「引き受ける」ことを目指す。自分の選択を引き受け、自分の判断を引き受け、結果としてもたらされる痛みを引き受ける。環境のせいにせず、他人を責めず、ダブルスタンダードで自分を慰めない。それは、悩むことよりも一万倍ましだ。

おそらく、正しさと間違いは、客観的な選択肢なんかじゃない。ただ、私たちが背負いたがらない重みなんだ。

子供の頃、私は正しいことは褒められること、間違いは罰せられることだと思っていた。今はこう信じたい。正しいとは、やった後に後悔しないこと。間違いとは、間違えた後に認めたくないこと。

標準解答にこだわるのをやめて、自分自身で承認印を押すことを覚えた時、おそらくその瞬間に、初めて「正しさ」に近づくんだ。

He who has a why to live can bear almost any how. —— ニーチェ

自分自身の「なぜ」を見つけた時、正しさと間違いは、もはや外からの評価ではなく、自分が引き受ける結果になる。