そういう人に出会ったことはないだろうか。会議でいつも最初に口を開く、あのタイプだ。話す速さはまるで時間と競争しているみたい。こちらの前の話に返事をしようとした瞬間、もう三段階先まで話を進めて、こちらが言いかけて止めた考えにまで裁きを下してしまう。席に座ったこちらの頭の中は、半分はついていけず、残り半分は「何かがおかしい」と薄々感じている——でも言語化できない。私も昔は、これを純粋に能力の問題だと思っていた。思考が速いから話すのも速い。判断が断固としているから、他人を否定するのもきっぱりしている。実行力が強いから、間違いを見つければ即座に打ち切り、歯切れは悪くない。この三つがそろえば、見る人が見れば有能なマネジャーの姿そのものに見えるだろう。ところがある細部に気づくまで、そう思っていた。同じ人物でも、他人の企画を評価するときは驚くほどオープンだ。自分なら絶対に採用しないやり方にすら感心を示す。ところが、その新しいやり方を自分が実行しなければならなかったり、自分の既存の進め方を変える必要があったり、他人の考え方に従わなければならなかったりすると、態度は一瞬で変わる。冷静な評価者から、激しく拒絶する人間へと変貌するのだ。この落差にはとても興味をそそられる。本当に頭が固い人間なら、どんな立場でも固いままだ。本当に新しいものを拒む人間なら、評価者という役割でも同じように拒むはずだ。でも実際はそうではない。ということは、問題は新しいものそのものではなく、その新しいものを主導するのが誰なのか、ということにある。新しいアイデアは、自分が評価する側に立てば、自分の判断力への承認になる。他人が主導し、自分が合わせる側に回ると、性質が変わってしまう——それは一つの暗黙のメッセージになる。「今の自分のやり方は、最善ではないかもしれない」という。大多数の人にとって、こうした暗黙のメッセージは仕事の中のただの普通の情報だ。受け取ったら一度評価し、合うものは採り入れ、合わないものは置いておく。けれども別のタイプの人間にとって、このメッセージが呼び起こすのは合理的な判断ではなく、生き残りの危機に迫られたときのような反応だ。心理学には「恥の回避」という概念がある。これは「面目を失うのが怖い」とは少し違う。面目を失うのが怖いというのは、人前で失敗するのが怖いということだ。一方、恥の回避はもっと深い層にあり、より根本的な恐れを指す。それは「自分はもしかしたら十分ではないかもしれない」という事実そのものが明るみに出るのが怖い、という恐れだ。特定の一つの失敗が目に見えるのが怖いのではない。どんな失敗でも、ひとたび目に入ってしまえば、彼がずっと隠そうとしてきた全体の結論につながってしまうのが怖いのだ。この角度からあの数々の行動を見直してみれば、一見矛盾だらけのあの言動も、すべて説明がつく。話すのがやたら速いのは、頭の回転が速いからではなく、認知を支配する効果を生み出すためだ。言葉の密度とテンポでこちらを押し切って、本当の対話に踏み込ませない。なぜなら、いったん対話がこちらの番とあちらの番とを交互に繰り返すテンポになれば、彼は「向こうが、自分が思いつかなかったことを出してくるかもしれない」というリスクにさらされるからだ。そして「思いつかなかったこと」は、彼にとってはただの情報の不足ではない。「本当は自分はそれほど優れていないのかもしれない」と裏づける証拠なのだ。だから彼は新しいものを拒む。すべての新しいものではなく、自分が主導していない新しいものだけを。だから彼は間違いがあればすぐに「やめ」を宣言する。それは修正ではなく、打ち切りだ。修正には「間違いがあった」と認めることが前提にある。そして間違いを認めることは、彼にとっては末端の問題ではなく、自分の全体が崩れ落ちることと同じだ。打ち切りはそれよりずっと楽だ。物事を丸ごと消し去り、間違いが生じた状況の文脈も、その場にいた人々も、そのまま線で引いて消す。責任もそれにつれて断ち切られる。ここまで書けば、もう見抜いているかもしれない。こういった振る舞いは、組織のなかではなかなかよく見かけるものだ。もっと面倒なことに、短期的には実際にうまく機能しているように見える。あるチームにこういう人間が一人いると、会議はいつだって効率的だ。なぜなら、異なる意見は形になる前に、スピードと否定で押しつぶされてしまうからだ。意思決定はいつだって明確だ。なぜなら、意見の対立を引き起こしかねない議論は、みな前もって打ち切られてしまうからだ。方向性はいつだって確定的だ。なぜなら、軌道を外れた事柄が起きる余裕すらないからだ。この安定こそ、多くの人が夢見るマネジメントの姿だ。けれどもそれは見せかけの安定だ。押しつぶされた声は消えたりしない。それは沈黙に姿を変える。チームのメンバーは一つの生存戦略を身につける。否定されそうなアイデアは出さない、間違いと見なされそうな判断はさらさない、高速で回転するあのフィードバックの循環には挑まない。一人が黙り、二人が黙り、最後にはチームの中で本当に新しいことを考えている人間は誰もいなくなる。みんなただあの人の判断を待って、それを実行するだけだ。一方で、あのマネジャーはまだ困惑しているかもしれない。なぜチームから活力が失われていくのか、なぜ「別な意見はないか」と聞くたびに、皆がただうなずくだけなのか。ここには、もう一歩深く考えてみる価値のある、深い逆説がある。このタイプの人間が何よりも恐れているのは、「自分は十分ではないかもしれない」と露見することだ。だから彼は、あらゆる力をその回避に注ぎ込む。スピードを使い、否定を使い、打ち切りを使って、その結論へと向かいかねないものをすべて外側へ遮る。だが皮肉なのは、この全力の守りこそが、本当により良くなるための余力を奪ってしまうことだ。より良くなる過程とは、本質的には、不足を認め、試し、失敗し、修正する過程だからだ。この四つの行為は、どれひとつとっても彼の防御システムのなかで「受け入れられない」と印がつけられている。すると奇妙な袋小路が現れる。自分が十分ではないのが怖ければ怖いほど、より良くなれる過程を経験するのを避けてしまい、その過程を避ければ避けるほど、見かけを保つのに防御に頼り、防御に頼れば頼るほど「十分ではない」という恐れが深まる。彼は自分が状況を握っていると思っているが、実際には恐れに押し流されている。自分はスピードを武器にしていると思っているが、それは牢獄なのだ。そして彼が一生をかけて隠そうとしてきたもの——あの「十分ではない自分」——は、最初から最後まで、ただの未検証の仮説だったかもしれない。成長の過程で、安全に間違えることを一度も許されたことのない人間は、大人になってから「間違いを許してはならない」を他人から受け継ぎ、それを自分自身と周囲のすべての人に課し続ける。そうして彼は、かつて自分が最も怖れていた審判者になってしまう。ただ今回は、主導権は自分の手にある。だが主導権というものも、守る必要のないものを守るために使ってしまえば、長い長い自己消耗に変わる。私はよく考える。こういう人も、誰かが自分の思いつかなかった考えを出したとき、すぐに返事をせず、その沈黙を数秒だけ持たせてから口を開けたら、事態は変わっていただろうか。問題は、あの数秒なのだ。あの数秒のなかには、言葉の覆いも、認知の支配も、前もって用意された否定もない。ただ、未知に直面した人間の、最も根源的な反応があるだけだ。好奇心かもしれないし、不安かもしれないし、もっと聞きたいという衝動かもしれないし、何もないかもしれない。でもその空白そのものが、防御システムの一筋のひび割れだ。彼はたぶん、自分にその数秒を許したりはしないだろう。なぜなら彼の心の収支計算のなかでは、沈黙の代償は大きすぎるからだ。大きすぎて、一生分の話す速さで埋め立てていくほうを選んでしまうほどに。
そういう人に出会ったことはないだろうか。会議でいつも最初に口を開く、あのタイプだ。話す速さはまるで時間と競争しているみたい。こちらの前の話に返事をしようとした瞬間、もう三段階先まで話を進めて、こちらが言いかけて止めた考えにまで裁きを下してしまう。席に座ったこちらの頭の中は、半分はついていけず、残り半分は「何かがおかしい」と薄々感じている——でも言語化できない。
私も昔は、これを純粋に能力の問題だと思っていた。思考が速いから話すのも速い。判断が断固としているから、他人を否定するのもきっぱりしている。実行力が強いから、間違いを見つければ即座に打ち切り、歯切れは悪くない。この三つがそろえば、見る人が見れば有能なマネジャーの姿そのものに見えるだろう。
ところがある細部に気づくまで、そう思っていた。
同じ人物でも、他人の企画を評価するときは驚くほどオープンだ。自分なら絶対に採用しないやり方にすら感心を示す。ところが、その新しいやり方を自分が実行しなければならなかったり、自分の既存の進め方を変える必要があったり、他人の考え方に従わなければならなかったりすると、態度は一瞬で変わる。冷静な評価者から、激しく拒絶する人間へと変貌するのだ。
この落差にはとても興味をそそられる。本当に頭が固い人間なら、どんな立場でも固いままだ。本当に新しいものを拒む人間なら、評価者という役割でも同じように拒むはずだ。でも実際はそうではない。ということは、問題は新しいものそのものではなく、その新しいものを主導するのが誰なのか、ということにある。
新しいアイデアは、自分が評価する側に立てば、自分の判断力への承認になる。他人が主導し、自分が合わせる側に回ると、性質が変わってしまう——それは一つの暗黙のメッセージになる。「今の自分のやり方は、最善ではないかもしれない」という。大多数の人にとって、こうした暗黙のメッセージは仕事の中のただの普通の情報だ。受け取ったら一度評価し、合うものは採り入れ、合わないものは置いておく。けれども別のタイプの人間にとって、このメッセージが呼び起こすのは合理的な判断ではなく、生き残りの危機に迫られたときのような反応だ。
心理学には「恥の回避」という概念がある。これは「面目を失うのが怖い」とは少し違う。面目を失うのが怖いというのは、人前で失敗するのが怖いということだ。一方、恥の回避はもっと深い層にあり、より根本的な恐れを指す。それは「自分はもしかしたら十分ではないかもしれない」という事実そのものが明るみに出るのが怖い、という恐れだ。特定の一つの失敗が目に見えるのが怖いのではない。どんな失敗でも、ひとたび目に入ってしまえば、彼がずっと隠そうとしてきた全体の結論につながってしまうのが怖いのだ。
この角度からあの数々の行動を見直してみれば、一見矛盾だらけのあの言動も、すべて説明がつく。
話すのがやたら速いのは、頭の回転が速いからではなく、認知を支配する効果を生み出すためだ。言葉の密度とテンポでこちらを押し切って、本当の対話に踏み込ませない。なぜなら、いったん対話がこちらの番とあちらの番とを交互に繰り返すテンポになれば、彼は「向こうが、自分が思いつかなかったことを出してくるかもしれない」というリスクにさらされるからだ。そして「思いつかなかったこと」は、彼にとってはただの情報の不足ではない。「本当は自分はそれほど優れていないのかもしれない」と裏づける証拠なのだ。
だから彼は新しいものを拒む。すべての新しいものではなく、自分が主導していない新しいものだけを。だから彼は間違いがあればすぐに「やめ」を宣言する。それは修正ではなく、打ち切りだ。修正には「間違いがあった」と認めることが前提にある。そして間違いを認めることは、彼にとっては末端の問題ではなく、自分の全体が崩れ落ちることと同じだ。打ち切りはそれよりずっと楽だ。物事を丸ごと消し去り、間違いが生じた状況の文脈も、その場にいた人々も、そのまま線で引いて消す。責任もそれにつれて断ち切られる。
ここまで書けば、もう見抜いているかもしれない。こういった振る舞いは、組織のなかではなかなかよく見かけるものだ。もっと面倒なことに、短期的には実際にうまく機能しているように見える。
あるチームにこういう人間が一人いると、会議はいつだって効率的だ。なぜなら、異なる意見は形になる前に、スピードと否定で押しつぶされてしまうからだ。意思決定はいつだって明確だ。なぜなら、意見の対立を引き起こしかねない議論は、みな前もって打ち切られてしまうからだ。方向性はいつだって確定的だ。なぜなら、軌道を外れた事柄が起きる余裕すらないからだ。
この安定こそ、多くの人が夢見るマネジメントの姿だ。
けれどもそれは見せかけの安定だ。
押しつぶされた声は消えたりしない。それは沈黙に姿を変える。チームのメンバーは一つの生存戦略を身につける。否定されそうなアイデアは出さない、間違いと見なされそうな判断はさらさない、高速で回転するあのフィードバックの循環には挑まない。一人が黙り、二人が黙り、最後にはチームの中で本当に新しいことを考えている人間は誰もいなくなる。みんなただあの人の判断を待って、それを実行するだけだ。一方で、あのマネジャーはまだ困惑しているかもしれない。なぜチームから活力が失われていくのか、なぜ「別な意見はないか」と聞くたびに、皆がただうなずくだけなのか。
ここには、もう一歩深く考えてみる価値のある、深い逆説がある。
このタイプの人間が何よりも恐れているのは、「自分は十分ではないかもしれない」と露見することだ。だから彼は、あらゆる力をその回避に注ぎ込む。スピードを使い、否定を使い、打ち切りを使って、その結論へと向かいかねないものをすべて外側へ遮る。だが皮肉なのは、この全力の守りこそが、本当により良くなるための余力を奪ってしまうことだ。より良くなる過程とは、本質的には、不足を認め、試し、失敗し、修正する過程だからだ。この四つの行為は、どれひとつとっても彼の防御システムのなかで「受け入れられない」と印がつけられている。
すると奇妙な袋小路が現れる。自分が十分ではないのが怖ければ怖いほど、より良くなれる過程を経験するのを避けてしまい、その過程を避ければ避けるほど、見かけを保つのに防御に頼り、防御に頼れば頼るほど「十分ではない」という恐れが深まる。彼は自分が状況を握っていると思っているが、実際には恐れに押し流されている。自分はスピードを武器にしていると思っているが、それは牢獄なのだ。
そして彼が一生をかけて隠そうとしてきたもの——あの「十分ではない自分」——は、最初から最後まで、ただの未検証の仮説だったかもしれない。
成長の過程で、安全に間違えることを一度も許されたことのない人間は、大人になってから「間違いを許してはならない」を他人から受け継ぎ、それを自分自身と周囲のすべての人に課し続ける。そうして彼は、かつて自分が最も怖れていた審判者になってしまう。ただ今回は、主導権は自分の手にある。
だが主導権というものも、守る必要のないものを守るために使ってしまえば、長い長い自己消耗に変わる。
私はよく考える。こういう人も、誰かが自分の思いつかなかった考えを出したとき、すぐに返事をせず、その沈黙を数秒だけ持たせてから口を開けたら、事態は変わっていただろうか。
問題は、あの数秒なのだ。
あの数秒のなかには、言葉の覆いも、認知の支配も、前もって用意された否定もない。ただ、未知に直面した人間の、最も根源的な反応があるだけだ。好奇心かもしれないし、不安かもしれないし、もっと聞きたいという衝動かもしれないし、何もないかもしれない。でもその空白そのものが、防御システムの一筋のひび割れだ。
彼はたぶん、自分にその数秒を許したりはしないだろう。なぜなら彼の心の収支計算のなかでは、沈黙の代償は大きすぎるからだ。大きすぎて、一生分の話す速さで埋め立てていくほうを選んでしまうほどに。